

日本語教育史、関連人物紹介
概要
突然ですが、みなさん「オーラル・メソッド」や「グアン式教授法」はご存じですか?
おそらく養成講座や検定試験で見たり聞いたりしたのではないでしょうか。
これらの言葉は、言うまでもなく、現在の日本語教育に大きな影響を与えています。
それでは今ある日本語教育はどのような理由で、どのような経緯でつくられてきたのでしょうか。
今回は日本語教育の重要人物とともに、歴史をふりかえります。
ジェイムズ・C・ヘボン
まず、組織的な日本語教育として記録が残されているのは、16世紀後半のポルトガル宣教師によるものだそうです。
その後、時を経て江戸末期にはペリー率いる米国艦隊が来航し、外交官や宣教師などが日本語を学び始めます。
その際に来日したジェイムズ・C・ヘボンは、1867年に『和英語林集成』を作成しました。辞書に日本語を記す際ローマ字が必要となり、1885年に完成させたのが、今もなお使われているヘボン式ローマ字と呼ばれているものです。なお、日本式のローマ字を作成したのは、田中館愛橘です。
チェンバレン/上田万年
また、イギリス人言語学者、チェンバレンもこの時期に来日しています。チェンバレンは、日本の国語学者、上田万年の師として知られています。この上田万年の論文としては、「P音考」(「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」の音はもともと「パ・ピ・プ・ペ・ポ (P音)」だったのではないかという論考) や、「標準語」の必要性を述べた「標準語に就きて」などがあります。
嘉納治五郎
明治時代になると、富国強兵の時代となり各国が近代化を目指し始め、この頃から清国や朝鮮から留学生が送られるようになり、日本語やその他の科目を学ぶ機関が増え始めます。
朝鮮における権益などをめぐって日清戦争に敗れた清(中国)は、近代化を日本に学ぼうと、留学生を送り込んできました。
1896年に日本に最初に派遣された13人が、柔道を創始したことで知られる、高等師範学校校長の嘉納治五郎の下、後に亦楽書院と名付けられる寮で、日本語やそのほかの科目を学びました。亦楽書院はその後、弘文学院(宏文学院)と呼ばれるようになり、1909年に閉鎖されるまで7,000人以上の留学生を受け入れました。
岡倉由三郎
一方、国内だけでなく、海外での日本語教育が盛んになったのもこの頃で、朝鮮において初の本格的な日本語教育機関である日語学堂が開設されました。その初代学長が岡倉由三郎です。
英語学者であった岡倉由三郎は、『新英和大辞典』の編集者でもあり、「標準語」という言葉を使用した第一人者でもあります。
大槻文彦
またこの時代には、ドイツ留学前の上田万年に影響を与えた大槻文彦が近代的な国語辞書『玄海』を編纂しています。
大槻文彦は、『玄海』に掲載していた自らの文法学説「語法指南」を発展させた『広日本文典』を著したことでも知られています。
伊沢修二
1894年に始まった日清戦争に勝利し、台湾を中国から奪った日本は、台湾総督府を設置しました。その際に台湾総督府学務部長として、1895年に赴任したのが、伊沢修二です。
台湾統治政策の要は教育であると主張し、台北郊外の芝山厳学堂で日本全国から集めた6人の人材を教師として置き、地元の子弟対象の日本語教育を開始しました。
翌年には、日本統治に反対する抗日武装勢力に襲撃され6人が殺害されてしまう、芝山厳事件が発生しますが、伊沢修二は事件後も同化主義を推進しました。
山口喜一郎
幼児の母語習得に着目したナチュラルメソッド (サイコロジカルメソッド) を考案したグアンの影響を受け、グアン式教授法から、日本語教授法「山口式直接法」を編み出したのが、山口喜一郎です。
1897年台湾で教師人生を開始した山口喜一郎は、その後朝鮮、中国に招かれ1945年まで教え続けました。
口頭による言語活動を重視したこの教授法は、台湾のみならず、朝鮮半島、および中国大陸の一部 (満州) での日本語教育にも採用されました。
大出正篤
韓国併合が行われた1910年、朝鮮での日本語教育は、当初朝鮮語の授業も行われましたが、徐々に日本語の授業が増加し、最終的には朝鮮語は教育課程から消え、日本語の授業が必修となりました。この頃使用されていたのが大出正篤が編纂した、翻訳法を取り入れた実用教科書でした。
後に関東州では大出正篤が考案した速成式と呼ばれる、対訳を利用して学習者に自宅で予習させ、教室では中国語を一切使用させない方法を広めようとしていた時代もありました。
しかし、日本人日本語教師に中国人教師の質の向上への貢献の役割が期待されたり、それぞれの特質を活かし、役割分担が期待されたりしましたが、日本の占領下における抗日の気運もあり、うまくはいかなかったようです。
松下大三郎
弘文学院の教師であった松下大三郎は、1913年、日華学院を創設し、中国留学生教育に携わりました。
文章語だけではなく話し言葉にも関心を寄せたことに特色があるといわれています。
1905年には宏文学院教授になり、松下文法という独自の文法体系を構築したことでも知られています。日本で最初の口語文典『日本俗語文典』の出版や、『標準国文法』『標準日本口語法』などの文法書を著しました。
松本亀次郎
松本亀次郎は、1914年に私財を投じて東亜高等予備学校を設立し、清国からの留学生に日本語を教え続けました。教え子の中からは、魯迅や周恩来など後の中国のリーダーとなる人物も輩出しました。弘文学院時代には、松下大三郎などとともに、『改訂日本語教科書』を作成しています。
長沼直兄/ハロルド・パーマー
1914年~1918年の第一次世界大戦を経た後の1923年、ハロルド・パーマーによる紹介でアメリカの大使館で日本語教師となったのが、長沼直兄です。口頭コミュニケーションを重視する教授法、オーラル・メソッドの影響を受け、直接法を編み出しました。
長沼は自身の著書である「標準日本語読本」を大使館で教科書として使いましたが、この教科書はのちの第二次大戦中はアメリカで軍人に日本語を学ばせる教科書として使用されました。
まとめ
戦前までの日本語教育の重要人物を、歴史に紐づけてご紹介いたしました。
日本語教育能力検定試験や、日本語教員試験でも、必須の日本語教育史ですが、人物名や関連事項をただ覚えるのはとても大変だと思います。
歴史上の事件や出来事、背景も頭の片隅におきながら、暗記してみるのはいかがでしょうか。
どのような歴史があって日本語教育が形作られてきたのか、試験勉強はもちろん、学習者と向き合う上でも、参考にしていただければ幸いです。
参考文献
岡田英夫(2008)『日本語教育能力検定試験に合格するための世界と日本16』アルク
高見澤孟(2006)「日本語教育史(7)―米国国内における日本語教育―」『學苑』第 785号, pp.77~87.
ヒューマンアカデミー(2014)『日本語教育能力検定試験完全攻略ガイド第3版』翔泳社